Liberty 55

一般大衆による政治考察
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法遵守の再考
 ルールの公平性を過度に意識する近頃の傾向は、決して望ましいとは言えないものだろう。

法律とは、少ないことが望ましいのであって、自身で自身を制限するのにも、そもそもそれは何から何を守るために策定されたのか疑問が残ることも多い。

法律(行政適用)を強化したところで、守っていなかった人は引き続き守らない。(かわし続けるだけ。)こんな傾向は明らかだ。では、何故それでも法律を強化するのか?
個人の意識の方が重要なのは明らかだろう。


法遵守を声高に主張するような、実質法軽視な方々が実社会において軽視されるようにならなければならない。
若者一般や一般社員が望ましくない行動を選択することに対し、大人や上司が長期的視点や人生の先輩として諭し、指導するのが望ましい社会であって、現在の世は、あえていうならむしろその逆であろう。


そして一番重要な視点がある。
上記のように、法律を守る予定がないような人でなくとも、普通の人は平時ではなく非常時・緊急時になると状況が変わってくる。日ごろ至って“まとも”な人であっても状況が変わればよろしくない手段を選択することなどよくあることだ。そして、私たちはそのことをとても軽視している。
人は、非常時の行動で多くを判断されなければならない。
そして「犯行時は心神喪失・・・」など、そのことへの理解が為されていないことが大きく影響している。
これは差別や平等の考え方が練れていないことも関係しているが。

『目的のために手段を選ばないこと』 自体が問題であり、そのような行動を選択する傾向は、多くの人が内包している。つまりこのことからも、“非常時”を真剣に考えなければいけないという主張になる。
「非常時など、なってみなければ分からない!」と主張する人々がいるだろう、それはまったく人間理解の足りない理屈重視な発想であり、その様な人には判断を任せられないということになる。

最後に、冒頭の“ルールの公平性”への補足だが、その発想自体は重要視する程ではないというだけで、そのことが何かの震源地となるほどのものでもないというだけの扱いと考えるべきだろう。
ルール自体は元々皆に等しくあるのである。これは運営及び行政上の人間性に係る話しだ。
| 55政党 | 秩序 | 08:22 | comments(0) | trackbacks(0) | -
私が信じる社会
法律は、今持っているものまたは約束されているものを守るためにあることが主な役割だという話しは以前にしました。そしてそれが強化されていく社会と国民が望む社会にはほとんど関係がない(むしろ悪い)ことも示されたのではないかと思っています。

車社会において、法律違反は日常です。基本的にスピード違反ですし、携帯で話さなければ・・ と車を路肩に停めても、停車違反。
しかし、それを厳格に適用することや、違反を取り締まれるようさらに法律を強化していくことは、果たして私たちが望んでいることでしょうか?

その様な違反に係るある事故が起きたとします。それは違反行為がいけないんだとそれぞれが感じ、法律の厳格化をしようとするとして・・ まず重要なのは、その事故によって失った命なりはもう帰ってこないことです。
そして次に、青信号なのに心配しながら減速などして通過する人はいないでしょう。
法律がきちっと守られるということは、違反する場合の大事故を増やすということです。


その様に考える時、法律と各自への秩序道徳的要求との“妥協点”を見つけ出す意識を持って、立法(つまり政治)に参加していくベキだということが想像できるでしょう。

その上で、私が信じる“妥協点”の境界となるべき指針を示したいと思います。

第一に、各自が何かしらの役割を担うこと
第二に、指揮指導側の者は、『見張り、且つ、信じる 』こと
第三に、成長(変化)し続けていける仕組み(ボディ)であること


私の中では、このような秩序が実現されている社会こそ自由主義と呼べるような社会なんだろうとも思います。
私を含む多くの一般市民にとって、今とらわれている“被害者意識”のようなものなど、実際は必要がないもので、本当に必要なのは“希望”であるはずです。
| 55政党 | 秩序 | 17:49 | comments(0) | trackbacks(0) | -
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